そんなある日の物語 

 〜反逆のジョシュア〜




 気づいたら二人きりになっていた。
 どうしてこんなことになったのか、考えてはみたけれど現実がそうなのだからこれ以上頭を悩ませる必要性はないだろうとジョシュアは思った。
 最初はひとりしかいなかったはずの部屋に、彼が訪れたのは数分前のことだった。そのときには、彼と一緒に他の技術者もいたような覚えがある。
 そうして最近の調子やらオーバーフラッグの様子やらを世間話程度に聞かれたのだ。
 確かそのときに、ビリーは云っていた。彼の恋人であるグラハム・エーカー上級大尉がそろそろ戻るころかと思ってここに足を運んだのだと。
 けれど、残念ながらグラハムはここにはいなかった。だから、ビリーも同僚の技術者と共にこの部屋を後にしたのだと、ジョシュアはそう思いこんでいたのだけれど。
「そっちに行ってもいいかな」
 不意にかかった声はビリーのもの。
 彼と関わるとグラハム・エーカーが非常にうるさいことになるために積極的な接触は避けていたのだが、当の本人はそんなことも関係なしにジョシュアに対しても穏やかな表情を向けてくる。
 今回もまた、彼の存在にさしたる興味を持たないふりをして三人掛けのソファに腰をかけたまま報告書を捲っていたのだけれど、こんな風にあちらから声をかけてきたのだから、もうジョシュアに非はないだろう。
 いいですよ、とジョシュアはつとめて穏やかにそう答えて、
「……は?」
 けれど彼の行動に文字通り目を剥いた。
 どうして彼は、ジョシュアのすぐ隣に腰を落ちつけるのだろう。ソファはジョシュアの掛けているものだけではなく、ひとり掛けのものも並んでいる。同じソファに座るにしても、普通はもう少し距離を開けるだろうに、どうして彼は肘を上げれば触れるような距離にやってきたのか、ジョシュアには到底理解できなかった。
「ごめん、迷惑かい?」
「……いえ、そんなことは」
 それでも妙に嬉しそうな彼の様子を見てしまえば容易に断ることなどできるはずもない。どことなく居心地の悪さを感じながらも、ジョシュアにぴたりと寄り添うように座って、ビリーは手にしていた小型端末の画面を開いてなにやら軽やかに打ち込んでいた。
 白く細い指先は、ジョシュアらパイロットには持ち得ないもので。それだけを見れば確かに男の手であるが、骨ばって堅いジョシュアらの手と並べて見ればその差は一目瞭然だ。白の手袋越しのジョシュアの手と見比べてもそう思ってしまうほどなのだから、実際に並べてみたときなど推して知るべしだ。
 この指が、小難しいばかりだろうMSの設計をし、論理を組み立て、そうして最高級のMSを作り出すことを知っている。重いものの持ち運びなどできないだろう軟弱な技術屋が、しかし一度スパナを握るとそこらのパイロットでは太刀打ちできないほどの気迫を纏うことを知っている。
 誰よりも強く速く空を飛びたいジョシュアにとって、彼は誰よりもジョシュアの夢に近い場所にいる人間のひとりだった。
 だからといって、さしたる交流もない彼らの間に会話らしい会話が湧いて出るはずもなく、時間ばかりがいたずらに過ぎていた。
 ジョシュアが紙をめくる音と、ビリーがキーを叩く音だけが響いていた。どうしてか心地よいと思えるその空気が、ふいに変わったのは響いていたはずの音がひとつ消えてしまったからだ。
 軽やかな楽器のように流れていた彼の音が、消えた。
 不思議に思ってジョシュアがビリーに目を向けたのと、肩に重みを感じたのはほぼ同時だったろうか。ジョシュアから拳ひとつ分離れて座っていた彼の身体は傾き、彼は頭でジョシュアの肩に寄りかかっていた。
 薄いガラスの向こうの黒い瞳は、今は隠されてしまっている。呼吸は穏やかで、表情もやわらかい。
 つまり、ビリーは眠ってしまっているのだ。
 おいおいと思ったけれど、ジョシュアがそれを口にすることはなかった。頭だけで寄りかかっていたと思われていたが、どうやら彼の体重がこちらにかけられる比率が徐々に上がっているらしい。
 起こしてしまわぬようにと息を殺していたけれど、眠り込んで力を失った彼の身体がジョシュアの肩から滑り落ちることは想像に難くないものであり、それは阻止すべき来るべき現実だと思えた。
「……カタギリ技術顧問?」
 静かに、つとめて静かに声をかける。しかし当然のようにビリーが目覚めることはなく、そのくせあと少し彼の身体が傾けば上半身が落下するというところにまできてしまった。
 これはもう、どうしようもない。
 心地良さそうに眠りこける技術部の若き天才を叩き起こすなどと無粋なことができるはずもなく、そうくればジョシュアがすべきことはひとつだった。
 彼の頭が落ちないよう気をつけながら彼と反対側の腕を上げて彼の肩を支え、バランスを取りながら自身の身体に沿ってビリーの頭と肩を下ろしていく。
 自らの身体の位置も調節しながらビリーを横たえさせると、いくらかの揺れが気になったのかビリーが寝惚けたような声を出した。
「――いいですから、そのまま寝てください」
 起きるかと身構えたが、慎重に囁いてみせるとビリーは再び身体の力を解いてジョシュアの脚の上で丸くなる。
 ついでとばかりに両腕を胸の前に寄せて背中まで丸められてしまうと、まるで猫を膝に抱えているような気さえ覚える。
 眠っている彼の横顔は、年齢にそぐわないというべきか、それとも意外な素顔というべきか。東洋系の人間は年齢がわからないといわれるけれどもしかしたら彼もそうなのかもしれないとジョシュアは思った。
 それほどまでに、彼の横顔は普段よく見る技術者の顔ではなく幼い子どものような邪気のないもののように見えたのだ。どこからか甘い匂いがするのはコロンかなにかだろうか、でなければ彼が好きだという甘い菓子の匂いだろうか。
 男に興味などはなかったし、男でしかも四歳も年上の技術者を選ぶなどグラハム・エーカーどんな趣味してんだとも考えていたが、彼ならば、まあ、いいかもしれない。あくまでもこれまで考えていたよりは、だ。
 なにが面白いって、彼は、このビリー・カタギリという男は、ジョシュアがグラハム嫌いを公言していても全く態度が変わらないのだ。
元より直接会話をする機会は多くないのだが、しかしグラハムのパートナーであり親友であり恋人でありながら、である。
 グラハムの心棒者であるハワード・メイスンなどはジョシュアとグラハムが話をしているだけであからさまな視線を寄越してくるというのに、ビリーはといえば逆に傍らで楽しげに眺めているか、または全く興味がないかのように意識を他へ向けているかのどちらかだった。
 なんだこいつと思うこともあったけれど、ある意味でそれも彼らしいといえばそうなのかもしれない。
 この想いをどう表せばいいのかわからないけれど。
 つまり彼は、そういう人間なのだ。





 無粋な闖入者が去った後、騒がしく飛びこんできたのは今さら云うまでもない、グラハム・エーカーだった。いつものようにやってきて、こちらを見るなり顔色を変えて叫びにならない声を上げていた。
 なにをやっているのだ、こいつは。
 思いながら、しかしあえて平然とした顔を保ちつつ口元に立てた人差し指を当てると、年齢にしては幼いといわれる顔立ちが見る間に鬼の形相になった。


 ああ、なんて面白い一日なのだろう!