「ダリルは見た」

　オーバーフラッグスのメンバーにと与えられたその部屋には、このときダリルを含め三人しかいなかった。ダリルはつい先ほどこの部屋に足を踏み入れたばかりだから、つまりはそれまではここには二人の人間しかいなかったということになる。
　二人――そう、ビリー・カタギリ技術顧問とジョシュア・エドワーズ少尉だけが、この部屋にいた。
　いつから彼らが二人きりでいて、どうしてこんな状況になっていたのかは当然ダリルにはわからない。けれど傍目に見た様子からすると、彼らは決して嫌々ながらそんなことをしていたわけではなく、むしろ体勢からすると自ら望んでのことではないかとさえ思われた。
　考えたくはないが、考えられないことはない。そんな揺れる気持ちを抱えながら、ダリルは呆然とその様を見つめることしかできなかった。
「おい」
「！」
　突然にかけられた声はジョシュアのもの。やや抑えめの、けれどはっきりとした声はダリルの元に違わず届き、自らの思考に沈みそうになっていたダリルを強引に現実へと引き戻した。
「突っ立ってないで、出るか入るかどっちかにしろ」
「あ、ああ……」
　すまないと告げ、さらに一歩室内に足を踏み入れて扉を閉めると、ジョシュアは満足したように頷いて手元の書類へと目を戻す。
　窓際のソファに腰掛けたジョシュアはその手に書類を持ち、その書類のすぐ下にどうしてかビリーの姿があった。ソファに座り上体だけ横になったような形で、ジョシュアの腿を枕代わりにして眠っていた。
　連日遅くまで作業をしている彼が慢性的に寝不足で、ふと気を抜くとそこらで眠りこんでいる姿はたまに見かけるが、まさかこのようなところでこんな様を目にすることになるとは到底考えてはいなかった。
　これがまだ、ビリーの恋人でありダリルたちの上官であるグラハム・エーカー上級大尉の膝枕であったのならわからないことはないのだ。彼らはれっきとした恋人同士であり、それをダリルも含めたＭＳＷＡＤの面々もよく知っていたから。
　けれどそこにいるのはグラハムではなく、確かにジョシュアであった。
　オーバーフラッグス設立に伴い各地から集められた精鋭のパイロットのひとりであるジョシュアが、グラハムに対し並々ならぬ敵愾心を抱いていることは周知のことであり、彼自身もまたそれを隠そうとはしていなかった。
　そんなジョシュアが、どうしてグラハムの恋人であるビリーに膝枕をしているのか、まったくもってダリルには想像がつかない。
「ジョシュア、お前……」
「なんだよ？」
　訝しげな視線を向けられるも、どう声をかけていいのかわからない。
　元よりグラハムに心酔しているダリルとグラハムを疎んでいるジョシュアとでは楽しい会話が成り立った覚えはなかったけれど、それでも気軽な日常会話のひとつさえ出てこないのは、目の前のこの現状があまりにも非日常的だとダリルが認識してしまったからだ。
　なにを云えばいいというのか。もしかしたらここから早急に立ち去った方が身のためだろうか。
いやしかし、グラハムの恋人たるビリーをジョシュアと二人きりのままにして――しかもこんな体勢であるというのに、だ――放っておいて、ビリーになにかあったらそれこそ自分の身が危うい。
　それほどまでに、グラハムはビリーに愛という名の執着心を抱いており、大なり小なり嫉妬の対象には事欠くことがなかったのだから。
　それを知らないはずがないジョシュアが、あえてこんなことをしている理由がダリルにはわからない。
　いやもしかしたら、ジョシュアのことだからそれをわかったうえでやっているのかもしれないけれど。
それにしてはジョシュアは満更でもなさそうな顔をしているし、まさか本気でビリーのことを？　いやそんなまさか！
「……ん、」
　そうこうしているうちに、室内に人が増えたのを察したのかビリーが唸るような声を上げた。
　起こしてしまったのだろうかと思わず身構えてしまうダリルとは反対に、ジョシュアは手元の資料を下ろしてビリーの顔を覗きこんだ。
「すみません、うるさかったですか」
　ダリルは自分の目を疑った。
「……いや、だいじょうぶだよ。君の膝枕はいいね。高さが適度で気持ちがいい」
「俺のものでよければいつでもお貸ししますよ」
「そう、じゃあもう少しお願いしようかな」
　眠気を含んだ独特の甘やかな表情でビリーは微笑むと、再び顔を横にして目を閉じた。ジョシュアはその姿を小さく微笑んで見つめていた。
　なんだこれは。
　俺は幻覚を見ているのだろうかとダリルは思った。
　まさか、こんな場面でどうしてジョシュアのまるで恋人に向けるような甘い表情を優しい囁きをこの目にすることがあるのだろう。グラハムの前でもないのに、気を許しきったような穏やかな表情のビリーの姿には緊張感の欠片もなく、その事実がなおいっそうダリルの心臓を凍りつかせた。
　なんだ、なんだこれは。
　見てはいけないものを見てしまったような気がする。自分はこの場にいてはいけないような気がする。とにかく今すぐにでも踵を返してここから出ていかなければいけないような、そんな気がしてならないのだ。
　ビリーやジョシュアがどうこうという話ではなかった。ただ、ダリルの本能がそう告げていた。
「おい、……どうした？」
　固まったきり口をつぐんでしまったダリルに、ジョシュアの声がかかる。
　なんでもない、とただそれだけを告げてダリルはその部屋を後にした。そのとき、ジョシュアがどんな顔をしていたかなんて考えるつもりはなかったし、ジョシュアがビリーにどんな目を向けているかなんて考えたくもなかった。
　冷静になれと自分に言い聞かせながら、それでも一目散にその場から離れて、ダリルはひとり廊下を歩きながら小さく溜息をついた。
　なんだかとんでもないものを見てしまったような気がする。けれど、そうだあれは自分とは無関係なのだ。自分はあそこにはいなかった。なにも見てはいなかった。
　ジョシュアが自らあの様子を語るとは思えないから、きっとあの場に自分がいた事実さえもなかったこととなるだろう。
　そう自身を納得させてなんとか落ち着いたころ、急激な喉の渇きを覚えたダリルは近くにある食堂へと足を向けることに決めた。
　最初の曲がり角を過ぎたところで向こう側からやってきたらしい誰かとぶつかりそうになり、身体を反転させて避ける。相手も同じように身体の向きを変えたのか、廊下の端と端で正面から顔を見合せたのは、件のグラハム・エーカー上級大尉であった。
　あ、と思ったけれど声には出さずに足を止める。常のように足先を揃えて敬礼をすると、グラハムは鷹揚に微笑んだ。
「申し訳ありません、隊長！」
「いいや、私も注意散漫だった。気にするな」
　こうして顔を合わせたときには、二言三言であっても言葉を交わすことが多かったが、今日は急いでいるのだろうか、グラハムはそれだけを告げると足早にダリルの横を通り過ぎて行ってしまった。
　やるべきことがあれば周囲のことなど顧みない、そんなところも隊長らしい。
これもある意味では日常的な風景のひとつであるためにダリルは内心安堵していたのだが。
「あ」
　あれ、と思った。
「……まさか」
　気づいてしまった。
　思いついてしまった。
　足早にこの場を去ったグラハム。彼は、気分が高揚したときによく見る表情を浮かべてはいなかっただろうか。
　そうして彼が進んでいった先には、つい先刻までダリルがいた部屋があるのではないか。
　まさかそんなことはないだろう。いくら近場とはいえ、ビリーの研究室ではなくブリーフィングルームに真っ先にグラハムが向かうことはないだろう。あの状態のビリーとジョシュアがグラハムと顔を合わせるだなんて、そんなのは考えるまでもないほどに恐ろしいことだ。
　背筋を凍らせながら、考え過ぎだとダリルは首を振る。
　それでも考えてみれば、これもまたＭＳＷＡＤの日常的な非日常に他ならないのだけれど。

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