そんなある日の物語 

 〜ハワードの憂鬱〜 




 それは多分、なんでもない日常のワンシーンであったはずだ。
「やあ、ハワード」
 常に浮かべている穏やかな表情をさらに和らげて振り返ったのは、この部屋の主ともいうべきビリー・カタギリ技術顧問その人だった。
 MSWADの最先端をひた走る研究室の、幾度となく世話になっているその部屋の風景にどことなくひっかかりを覚え、室内を見回して視線をビリーに戻してからハワードはその違和感に気づいた。
「……技術顧問おひとりですか?」
「うん。珍しいことに、みんな会議や調整に行ってしまってね」
 確かに、常に数人から十数人は人が在中している研究室に、たったひとりビリー・カタギリのみがいるという現状はそう多く遭遇できるものではない。
 この部屋を覗いたときにビリーの姿が見えないということは良くも悪くも日常茶飯事であるが、まさかその反対でビリーだけが残ることがあるなんて。
 本当に珍しいことだと思いながら、ここにハワードの上司でもあるグラハム・エーカー上級大尉がいなくてよかったと少しばかり安堵した。
 ただでさえ、新部隊編成により互いに怒涛のスケジュールに追われ、触れ合いが最近とみに減っていると嘆いている彼のこと、ビリーが一人でいるところなど見られようものならどんなことになるかは火を見るより明らかだ。
「今日はどうしたんだい?」
「はい、来週の演習予定に変更が出ましたので、そのご報告に」
 手にしたファイルとディスクを差し出すと、振り返ったビリーは驚いたようにハワードを見上げて苦笑する。
「それくらいなら、あとでデータを送ってくれてよかったのに」
「いえ、ついででしたので」
「そう? わざわざありがとう」
 座ったまま伸ばされた手に、持参品を乗せると彼はまた笑った。
 軍という場所において、こんな風に始終穏やかな人間はそうは多くない。ハワードの上司たるグラハムもよく笑う方ではあるが、雰囲気からしてやわらげで常に微笑んでいそうな、そんな人はハワードが知る限りではビリーただ一人だ。
 ハワードの持参品を受け取り、自身のデスクの右端に置いたビリーは、不意に顔を上げるとハワードの顔を覗きこんだ。
「そうだ、いただきもののお菓子があるんだ。ひとつどうだい?」
「いえ、自分はすぐに戻りますので」
「そう。それは残念だな」
 ちょうどいいから休憩に付き合ってもらおうと思ったのに。そう呟くビリーの声音は心底残念そうで、ハワードは不思議と楽しい気持ちになる。
 そんなハワードの気持ちを知ってか知らずか、ビリーは椅子に腰かけたまま軽く伸びをすると頭の後ろの高いところで結ばれていた髪留めに手をかけ、一気に引き下ろす。
 長い金茶の髪がはらりと揺れて肩に落ちる様は、ハワードにとってはどこか物珍しく感じるものだった。
 休憩がてらの気分転換のためとでもいうのだろうか。偶然に居合わせただけとはいえ、ビリーにとって自分は無防備な姿を晒すことを許される相手と認識されているらしい。
 すぐに踵を返すこともできずに、ハワードは髪を結いなおそうとしているらしいビリーの横顔から目が離せない自分に気づいた。
 これまでビリーに対し、ハワードが女を感じたことはない。
 いくら女性のように髪が長いといっても、彼は長身で身体は薄いが上背もある。顔だって格別な美形ではないが整っているという程度で、確かに男の顔立ちのはずだ。
 顔や身体だけを見れば、彼は紛うことなき男性で、それ以外に見ようのないはずだった。
 しかしなぜだろう、髪を解く彼の後ろ姿に目が引きつけられるなんて。
 長いストレートの髪に指先を滑らせる。細く日に焼けていない指先が、やわらかな色合いの茶の髪の間から見え隠れしていた。
 あの手に触れたらあたたかいだろうか、それともひやりと冷たいだろうか。あの髪に唇を寄せたら、もしかしたら甘い匂いがするのではないだろうか。
 そんなことばかりが、どうして胸の中を巡ってしまうのだろう。
「……ハワード?」
 気づけばビリーが不思議そうな顔でこちらを見上げていた。彼の髪はいつものように結い上げられており、そこにあるのは変わらない日常に他ならなかった。
 なのにどうしてだろう、露わになった彼の首筋から目が離せないなんて。
「いえ、失礼しました。それでは、自分はこれで」
 慌てる内心を抑えて敬礼をひとつ。そうしてビリーの顔をあえてみないようにしながらハワードはその部屋を去った。
 そうだ、彼への用事が終わったのだから自分は次の仕事に移らなければ。またすぐに、彼とは顔を合わせることになるのだから気持ちを切り替えておかなければならない。
 それは多分、なんでもない日常のワンシーンであった。否、そうでなければ困るのだ。





 ハワード・メイスンにとって、グラハム・エーカーは憧れであり尊敬の対象であり目標でもあった。
 MSWADの精鋭たちを集めたオーバーフラッグスの中でも、当然のように彼の才能はずば抜けていて、一部反発する人間もいるにはいたが誰もが彼の力を認め、彼が正しくオーバーフラッグスの隊長であると認識していた。
 だというのに。
「どうしてああも警戒心がないのか!」
 ぷりぷりと怒る姿は、MSWADの精鋭たるフラッグファイターを集めた部隊の隊長というよりもまるでそこらの学生のように見えてたまらないのだが、当然そんなことを告げることもできずにハワードは内心頭を抱えていた。
 人気のない食堂でとる遅めの昼食。人がまばらだからこそなのだろうか、グラハムのよく通る声であっても振り返る者は多くはない。
 というよりも、実際のところはむしろ下手に関心を寄せて巻き込まれたくないのだろう。
機嫌の悪いグラハムに絡まれると碌なことがないので、そんな状態の彼に触れるべからずというのは今や暗黙の了解であるほどなのだから。
 大抵のことならば焦るどころか楽しむような様さえ見せる並大抵ではない神経の持ち主であるグラハムの心を、ここまで乱すことのできる人間は世界広しといえどひとりしかいない。その人物こそがビリー・カタギリ。MSWADの技術顧問であり、グラハムの恋人でもある彼はれっきとした男性だ。
 空戦の貴公子たるグラハムの才能を若き天才と呼ばれるビリーは高く買い、また高名なレイフ・エイフマン教授の愛弟子であるビリーの技術力をグラハムも高く評価していた。
彼らはパートナーであり親友であった。ゆえに以前より二人の間には、他の人間が入り込めない雰囲気があるとさえ云われていた。
 過ぎるほどに親密なその様に、下世話な噂が飛び交うことは至極当然であったが、しかし一体誰が本気で彼らの関係を噂し信じていたというのだろう。
 それはよくある噂話にすぎなかった。けれど、よくある話だからこそ、現実に本当に起こりえることもあるのだということを、ハワードは初めて知った。
「しかもそれを自分自身が気づいていないときた!」
 出逢った当初からグラハムとビリーが互いにひどく執心していることは周知の事実であったが、それがいつから恋情に変わったのかを知るものはいない。というかある意味、深く知りたくはない。
 いつからかグラハムはビリーに愛を囁き始め、そしていつの間にかビリーも彼の愛を受け止めるようになっていたのだ。
 彼らは恋人同士になっても相変わらずで、だからこそ彼らの関係が噂程度のものなのか事実のひとつなのかは遠目に見ているだけでは判別が容易ではなかった。それでも彼らのすぐ近くにいた人間たちからすれば、その変化は一目瞭然であった。
 グラハムはときに過ぎるほどの独占欲を見せたし、ビリーもまた知っているのかいないのかそれを当然のように受け入れていた。
 しかしながら、いや、だからこそだろうか。そんな彼らの想いはそれなりの頻度で行き違い、そのたびに周囲を巻き込んでくれていたわけで。
「……なにか、あったのですか?」
 頭を抱え込まんばかりのグラハムに、ハワードはあえて問いを投げかけてみる。
 どこをどう考えても、ビリー・カタギリ技術顧問絡みだろうけれど。ハワードのその言葉を聞くや否や、待ってましたと云わんばかりの勢いでグラハムはその話題に食いついた。
「聞いてくれるか、ハワード!!」
 そりゃあさっきから目の前にいるんだから聞かないわけにいかないでしょうよ。ツッコミを入れたくなる心を抑えて、次にくるだろう怒涛の語りにハワードは内心で身構える。
 しかしグラハムは、そう叫んだきり語り出そうとはしなかった。
 なにかを話そうと口を開くも、考え直したかのように口を閉じ、それを何度か繰り返したかと思うと今度は鬼のような形相となり、かと思えば苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
「……隊長?」
 これは一体どういった症状なのだろう。
 常に全力疾走の元気溌剌なグラハムの珍しい様を見ていることは確かに面白い。けれど、悩むほどに語りにくいことなのだろうかと、かえってハワードが心配になりかけたそのとき。
「すまない、ハワード。これは私とカタギリの問題だ。君まで巻き込むことは本意ではない」
 既に十分巻き込まれている自覚はあるハワードも、しかし神妙な顔のグラハムに他の言葉をかけることはできなかった。
 というよりも、これ以上渦中に放り込まれるのはまっぴらだとさえ思っていた。
「隊長、どちらへ?」
 突然席を立つグラハムに、ハワードもつられて腰を上げかけたのだけれど。
「カタギリの元へ!」
 やけに爽やかに、ハミガキ粉のコマーシャルに出ている俳優のような笑顔で去ろうとするグラハムを、ハワードはあえて追おうとはしなかった。
 ああ、今日もまた平和な一日だ。