【あなたを想えばこそ】 




 その部屋の扉を開いたのは、実に四年ぶりだった。
 西暦2308年にガンダムのMSWAD襲撃により命を落としたレイフ・エイフマン教授の遺品は直筆のメモひとつでさえもが重要記録として扱われていた。ゆえに彼が生前住んでいた部屋に足を踏み入れることさえ申請が必要であり、さらに申請を出して許可を得られるものはごくわずかの人間に限られていた。
 その一人であるビリー・カタギリは、けれど数年ぶりに開いた扉の淵をなぞり小さく溜息をついた。
 ここにもう一度来る日がこようとは、ほんの二年前は考えてもいなかった。
 軍から離れリーサ・クジョウと再会し、彼女と共に暮らし始めたあの頃は。
 教授を失い、グラハムを失い、仲間たちを失い、自分たちの居場所を失ってしまった。それでもいつかは取り戻せるかもしれないと思っていた。教授のあとを継いでいくのは自分だと思っていた。
 けれどその決意も、失意に覆われた時間の中では徐々に消えて行ってしまった。結果としてビリーは軍から離れた。もう自分の居場所はここではないのだと突きつけられる日々はつらかった。
 そうして、クジョウと再会し、疲れきったような顔をした彼女を自宅に招いた。彼女は寂しげな顔で頷いて、そのまま一緒に暮らすことになった。
 彼女と暮らした二年間は、ただ楽しいだけではなかった。かつてのような幼い恋心はそこにはなかったけれど、それでも恋い焦がれた彼女と共にいられることは嬉しかった。弱りきった彼女が、最後に頼ってくれたのが自分だということが嬉しかった。
 このままではいけないと思っていた。でも、このままでずっといられたらとも思っていた。
 大きくはない部屋で、止まった時間を彼女と過ごし続けることも悪くはないと思っていた。全てが自分を置き去りにした世界の中で、惰性を貪り世界から離れていくのもいいだろう、そう考えていた。
 ――だから、壊れかけたその部屋の、覆われた曇りガラスを蹴破る者があるだなんてどうして思えるだろうか。
 仲間たちの、そして教授の仇でもあるソレスタルビーイング。
 その構成員である青年は告げたのだ。リーサ・クジョウは、ソレスタルビーイングの戦術予報士スメラギ・李・ノリエガであると。
 世界が壊れる音はきっと、暗闇の中での無音に似ている。
 彼女と過ごしたかつての日々、数年ぶりに彼女と再会したほんの数時間、そしてビリーと共に暮らした彼女との二年間。
 全てが混濁して頭の中をめぐり、自分の姿と彼女の姿を覆い隠していった。
 教授を殺したのはガンダムであり、ソレスタルビーイングであり、クジョウであり、そして自分なのだ、と。
 ……いろいろなことが、あった。
 ほんの数カ月の間に、本当に色々なことがあった。捨てたものがある、決めたことがある。かつてとは違う場所で、かつてとは違う人々の中で、かつてと似た仕事をする。けれど抱く想いはかつての自分では持ち得なかったものであり、時折溢れるどうしようもない感情を持て余しながら日々を過ごしていた。
 そうして、この部屋にやってきた。
 四年前はつらくて悲しくて、そしてなによりもガンダムを倒すためのフラッグを造ることが第一だったから、教授の死を原動力にしながらもその死を見ないようにしていたときもある。
 教授の所蔵する書籍や資料が納められているこの部屋は、四年前に何度か入ったときとまったく変わりがなかった。少しばかり埃っぽい空気を吸い、ビリーはいちばん手前の棚に手をかけた。
 棚に並んだ箱やファイル、書物の数々は教授の遺品であり、それぞれに教授がなにかしらの手を加えたものである。ちょっとしたメモや走り書きも、専門家から見れば重要な数式や理論の一部に他ならない。
 ビリーの手の中にはかつての教授の想いの断片がある。
 これをつなぎ合わせたら、もしかしたら教授に届くだろうか。教授がそうであったように、事実のひとつひとつを繋ぎ合わせて新しい世界を作り出すことができるだろうか。
 懐かしい筆跡の連なりはもう二度と戻らない大切なものを思い出させる。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。どうして、世界はこれほどまでに残酷で悲しいものになってしまったのだろう。
 まだ、教えてほしいことがたくさんあったのに。聞きたいことも知りたいことも、語りあいたいことも数え切れないほどあったのに。
 想えば想うほど過去は遠く、しかし現実は冷酷なまでにそこにあった。
 つい昨日まで見てきたような教授の痕跡を辿りながら、詰まる胸を抑えてビリーはひとつひとつ、掌の大きさ程度の紙片さえも大切に目を通して行った。
 だから、それらを見つけたのはきっと偶然ではなく必然だったのだろう。
 教授の残した、GNドライヴに関する新たな見解。これを実証して実装できれば、かつてないMSが誕生するに違いない。自分ならそれができると確信できた。
 ――そうしてもうひとつ。どうしてか色褪せない記憶を蘇らせたのは、一枚の写真だった。
 あれはまだビリーが大学に在籍していた頃だ。教授がいて、クジョウがいて、志を同じくする仲間たちがいた。
 研究にばかり目を向けていたビリーが初めて恋心を抱いた五歳年下の少女。明るく快活で、頭の回転が早く美しい少女。ビリーは彼女に淡い恋心を抱いていて、もしかしたら教授もそれを知っていたのかもしれない。
 教授が、自身の密やかな趣味であるレトロなカメラを持ち出してきたその日、ビリーとクジョウはツーショットで写真を撮った。それでは入りきらないからもっと近くに寄りなさい、教授の苦笑した声が蘇る。恥ずかしがるビリーに、クジョウは無邪気に笑って腕を絡めてきた。思わず目を逸らしたビリーの耳に届いた、シャッターを切る音。だからもっと近づけと云ったのに、教授はそう云って笑ったけれど、もう一度並んで同じカメラのフレームに入ることはどうしても恥ずかしくてクジョウと二人で写真を撮ることは叶わなかった。
 けれど教授は、あの写真を現像していたのだ。ビリーには知らされていなかったけれど、教え子たちのかつての姿を、教授は写真という色褪せない枠の中に閉じ込めたのだ。
 もう戻らない、戻れない日々がそこにあった。輝かしい懐かしい美しい思い出。思い出すことはないと思っていた。思い出せるはずがないと、思っていた。
 けれどあの日々は、確かにこの手の中にあった。なにひとつとして忘れてはいない、あの日彼女が、教授がそこにいたことを。
 それでももう、戻ることはできない。戻らない日々を想い泣き暮らすことなどできるはずもない。自分は決めたのだ、決めたからこそ、ここに来たのだ。
 過去を断ち切り、そして消し去るために。愛した人々の仇を討つために、愛した人を殺すことを誓うのだ。