【僕の愛しい眠り姫。そして――】




 やわらかな日の光の中で広がる亜麻色の長い髪をひと房掬うと、指の間を通ってするりと抜けていく。とらえどころのない、まるで彼自身のようなそれを左手でもてあそびながら、グラハムは手の中のそれにキスをした。
 日当たりのいい小部屋に篭っているかと思っていたら、案の定彼は睡魔に誘われ夢の世界に旅立っていた。仕事中ならばいかに自分が誘おうともこの手を取ろうとしないくせに、こういうときばかりは薄情な恋人が恨めしい。
 ソファに寝そべって、ともすれば行儀が悪いとも取れるような状態で寝入っているくせに、どうにもその表情はあどけなく咎める気が起こらない。意外に整った顔立ちをしているせいか、それとも単なる惚れた弱みか。
「まるで眠り姫だな」
 自分がここにいるというのに、どうして彼はその目を開いて自分を見てはくれないのだろう。
 彼のその、まじりけのない黒の瞳が見たいのに。
 年上の癖に妙に子どもっぽい寝顔に顔を寄せたのは、思いつきというほど軽くはなく、衝動的というほど激しい想いからでもなくて。
「目を覚ましたまえよ、愛しの君」
 いつだってグラハムのなにもかもを奪っていってはなんでもないような顔をする酷い恋人の、甘い唇を奪ってひとり味わえることはそう多くない。
 いっそのこと、このキスで目覚めて自分だけを見て自分だけを愛してくれたらいい。そんな思いがなかったといえば嘘になる。
 けれどまさか、本当にそれで目を覚ましてしまうなんて。
「……グラハム?」
 ぼんやりとした目で、けれど真っ直ぐに自分を見据えてくるその黒の瞳が愛しくてならない。
 本当にこれで、グラハムより年上のしかも三十路を越えた男なのかと思わずにはいられないが、そうでなければ彼ではないというのもまた事実だ。
「カタギリ、エイフマン教授との約束があるのでは?」
 時計を指しながら云ってやると、現時刻を認めたビリーは文字通り跳ね起きた。
 グラハムの手の中にまだ少しだけ残っていた髪が、今度こそ滑り落ち手の中にはなにもなくなってしまう。
 日の光に透けて淡い粒子を纏ったような茶色の髪が揺れる。
「行っておいで、私のシンデレラ」
 ふいに零れた言葉に、呆れたような目を向けられるのもいつものことだ。
「……君、流石にそれは恥ずかしいよ」
 なにを今さら。思ったけれど、鼻で笑うにとどめてやるとビリーは困ったように笑う。
 その表情も好きだ。そんな顔をさせたいがためにこんなことをやっているのかもしれないとさえ思えてしまうほど。
「十二時までに戻って来い」
 続けてやると、今度は肩を落とさんばかりに大きな溜息をつかれる。わかったよなんとか頑張ってみる、と苦笑気味の声が聞こえて、ビリーの姿は扉の向こうに消えた。
「シンデレラ、というよりは……」
 まるでかぐや姫のようではないかとグラハムは思う。
 いつだったかビリーに少しだけ聞いたことのある物語は、千年以上昔の日本人が書いたものだという。
 男を散々振り回しておきながら、自分はあっさりと月へ帰ってしまう美しくも人騒がせな姫君。
「君もどこまで私を振り回せば気がすむのだろうな」
 かぐや姫に求婚した最後の男の気持ちが、グラハムにはよくわかる。
 愛した者と引き換えだというのなら、不老不死などいらない。――君が消える代わりに与えられる最強の力など、いらない。
 だから掴まえたいと思うのだ。誰にも渡したくはないと、自分だけのものであればいいと、醜いほどの独占欲でもって縛り付けたくてならないのに。
 それでも、誰のものにもならない自由な彼であればこそ、自分は愛しているのだと思うから。
 今はただ、祈るように微笑もう。
 君が君らしくいられるように。君の笑顔が、悲しみで曇ることのないように。