September 10 




 そのとき、何気なく見たその数字の羅列に、ビリーは思わず首を傾げていた。
 それは仕事中には常時開いている端末の、画面下方の隅に示される現在の日時だった。
 9月10日。
 どうにも覚えのある日付のような気がしたが、一体なんの日だったろうか。脳内の年表を捲ってみても、この引っ掛かりを解消してくれるような答えは見当たらない。
 忘れているのか、それとも知ったはいいが覚えるほどの価値はないとしたものが残留しているのか、あと一歩で出てきそうなのに出てこない。
 それはほんの些細な疑問であったが、些細であるがゆえに気をとられ、おかげで集中力も見事に途切れてしまった。
 仕方がないから休憩にしよう。気分を変えればもしかしたら思い出すかもしれないし。そう考えながら、身体をほぐすように伸びをしていると、覚えのある足音が廊下に響き、すぐ後には勢いよく部屋の扉が開かれた。
「カタギリ!」
「ああ」
 その瞬間に、思い出した。
「君の誕生日か」
 そうだそういえばこの日付は彼の――グラハム・エーカーの誕生日だ。
 ようやく解決した謎により、すっきりとしなかった気分も晴れた。これでようやく仕事に専念することができる、と思ったところで、けれど先刻やってきた闖入者がおいそれと許してくれるはずもなかった。
「なんだ覚えていたのか」
「というより今思い出したよ」
 心底意外そうに目を見開かれる。そこに驚きと呆れが含まれていることは一目瞭然だった。
「……まあ、君が誰にも云われずに思い出せたというなら充分な進歩だろうか」
「ひどいな、こんな僕でも少しは成長してると思っていたけれど」
「なら、君のどんな変化が私の誕生日を思い出させたと?」
 グラハムの目が、まるで猫のそれのようにきらりと閃いたように見えた。期待をしているような、ただ面白がっているだけのような、そんな瞳に見下ろされビリーは小さく首を傾げて笑ってみせた。
「そうだね……例えば君が、僕の特別になったとか」
 特別。
 思えば確かにグラハムはビリーの特別だった。誰にも代えられない優秀なテストパイロットで、どうしてか理解不能だと云われやすいビリーにも根気よく付き合ってくれている貴重な人材。……といっても、周囲には深く付き合うのがより難しいとされるのはグラハムの方であったのだけれど。
 互いが随時そんな調子であるがゆえに、グラハムとビリーは気づけば互いになくてはならない存在同士になっていた。これを特別と云わずになんと云おう。
 けれど。
 今はまた、これまでとは違う特別になりそうな気がした。
 認識すべき場所が違う。違う、のだ。
 ――『特別』、だから。
「カタギリ?」
 怪訝そうな表情のグラハムが視界を覆う。無防備に真上から見下ろしてくる。うわ、と思った。
「カタギリ、気分でも悪いのか?」
 グラハムの顔だ。いつもと同じグラハムの顔に他ならないのに。
 なんということだろう。顔が熱くてたまらない。  血流などさしてよくもないくせに身体中の血が顔に集まってしまったようだった。
 なんという、ことだろう。
 どうしてこんなときに気づいたのか気づかなければならなかったのか。頭の中がグラハムでいっぱいになる。出逢ってから今までの、グラハムと過ごした日々が走馬灯のように駆け巡る。それでいて未来を思ってみても、ビリーの姿はグラハムの隣りにあるのだから本末転倒だ。
 どうしようもなく動揺して、けれどそれをあからさまに出すこともできずにビリーは差し伸ばされたグラハムの手を振り払うようにして立ち上がると、グラハムから顔を背けたまま部屋から飛び出した。
 辿り着く先の見えない想いを、胸の中でうずまかせながら。



 残されたグラハムは、行き場を失った手を首の後ろへと持っていくと、床に視線を落として小さく苦笑する。
「……振られた、な」



 グラハムは知らない。
 この日、彼自身の生まれた日に、グラハムは既にビリーの心を手にしていたということを。