闇待ち人

注) アリー&ビリーの暗めネタです










 そこは、決して綺麗とは云えない場所だった。
 MSWADより与えられたビリーの部屋とて、物が多く乱雑で整然の言葉とはかけ離れているが、この場はそういったものとは根本的に違っていた。
 質の悪いコンクリートと乾いた砂と、なにかの錆びたような匂いがする。
 暗く、そして寂しい場所だった。
「薄暗くて汚いところへようこそ、ユニオンのお姫様?」
 ぎくりと身体が強ばったのは、その声が思いも寄らぬところから響いたから。そしてまるで心を読まれたかのようなタイミングだったからだ。
 顔を上げるとそこには男がいた。どこから入ってきたのかはわからない。薄暗い部屋の、しかも眼鏡を失ったビリーにとっては、数メートル離れたところにあったらしい壁のどこに扉があるかなど判別もつきようがない。しかもその壁自体に背を向けていれば、壁の存在そのものに気づくこともない。
 いち技術者であるビリーが、グラハムのように人の気配を察知できるような感覚を持ち合わせているはずがなかった。
 ましてや、相手がグラハムのように場慣れた様であればなおさらだ。
「……僕はお姫様なんかじゃないし、ユニオンのものというわけでもないけど?」
「知ってるよォ」
 わざとらしく男は笑う。しかし浮かぶ笑顔は確かに棘を含んでいた。
 薄暗さからはっきりとはいかないが、顔の造作程度はなんとか見える。歳はビリーと同じほどか、いくらか年上といったところだろうか。
 好戦的な様は、非戦論者のビリーとは根本的に相容れないものだ。むしろグラハムに近しい人種のように感じられたが、グラハムとも決して気は合わないだろうと思われた。
「ユニオンが誇る最高の頭脳とやらも、力の前にはただの人だなァ」
 圧倒的なただ力でもってビリーを奪った男。彼の意図はわからない。否、いくつもの事態を想定こそできるが、その考えのどれにも彼は当てはまらないような気がした。
 移動中のビリーの車を突然襲った男たちは、ビリーの知らない言葉を発していた。
 しかし彼は、このリーダーらしき男は、ビリーの前では美しい英語を話している。言動に乱雑さとわざとらしさはあれど、佇まいもそこいらのチンピラとは一線を画していた。ただの小悪党ではないと、いくら鈍いビリーでもわかるほど。
「……僕を、どうしようというんだい?」
 ビリーの決死の言葉を、男は鼻で笑う。いかにも馬鹿な質問をしたと云わんばかりの、呆れた笑い声だった。
「どうもしないさ。俺の仕事はただ、アンタを攫って逃がすなってそれだけだ。アンタがそのあとどうなろうと知ったこっちゃねえ」
 彼の言葉が確かなら、ビリーはどこかの組織の依頼で誘拐されたのだろう。
 これが例えば単純に身代金目的ならば、三十にもなる男を攫うにはかなりのリスクが生じる。同じく誘拐するのなら、富豪の子女を狙った方がまだリスクが少なく、単純に攫うだけと考えれば成功率は跳ね上がる。
 それゆえに、彼らの依頼主はビリーを欲しているのだということが容易に推測できた。
 彼らはビリーを――ビリーの頭脳こそを欲しているのだ。
「……僕は、生きて帰られるのかな」
 攫って逃がすな、男の言葉か確かなら、ビリーの身は交渉材料に使われるか、もしくはそのまま他の何者かの手に渡ることになる。
 前者ならば、交渉が決裂した瞬間とビリー身の危険がイコールで結ばれる可能性が高いが、後者の場合は余程のことがない限り命は残るだろう。
「さァなぁ。そんなこたぁ俺の知るところじゃねぇな」
 今後の展開がどう転がるか、ビリーにはわからない。ビリーの命は、目の前のこの男と、男を雇った何者かに握られているに等しかった。
「ここはどこか――なんて、聞くだけ無駄かな」
「だろうなぁ。ま、命が惜しけりゃやめとけってやつだな」
 他人事のような台詞を吐きながら、男はビリーの傍らにしゃがみこんだ。
 横たわったまま後ろ手に縛られていたビリーは顔だけでなんとか男を見上げて、その瞳に言葉を失った。
 男は笑っていた。笑っているのに、瞳に宿るは冷徹なまでに凍った光。他人の命などどうとも思わない、ただあるがままの、自らが引き起こした現実を見据えて冷たく笑う目は、今まで見たどんな誘拐犯とも違った。
 悪ぶった人間、悪を纏うことに酔いしれた人間というものならこれまで多少なりとも見てきたが、しかし彼は違う。
 彼は悪事を楽しんでいる。狂ってはいない。――狂ってなどいないのに、冷静な理性を持ちながらも彼はまごうことなき悪であった。
 身体の芯が冷える。
 ―――怖い、と。否定しがたい感覚がビリーの身体を支配していた。