キスをください




 熱いシャワーを全身に浴びる。火傷しそうなほどの水に負けないほど、身体は熱い。けれど頭の中はそれに反するように冷え切っていた。
 死んだのだ。仲間が、仲間たちが、死んだ。
 わかっている。自分たちは軍人だ。戦場に出ているのだ。いつ死んでもおかしくはないし、数え切れないほど人を殺しているのだ。いつか死ぬとき、安らかに死にゆくことができるなどとは毛頭考えてはいない。
 それでも、――それでも。
 夢を語り、希望を語り、決意を語り、勝利を誓い合った仲間を失った。どんなに日が経とうとも、いつしかこの感情が薄れようとも、きっと忘れることはないのだろう。この痛みを、この苦しみを。
 仲間たちの命を奪った機体へと一矢報いることができたとて、この痛みがなくなるわけではない。むしろ、思うのだ。あのときこうすることができたなら。あのとき、こうやって相手を退かせることができたのなら。
 そうであったのなら、きっと仲間たちは死ななかった。失うことはなかったのではないだろうか、と。
 後悔は無為だ。そう考えること事態が、彼らの死を侮辱することにもなる。わかっている。わかっているのだ。例え自分が死んだとしても、死の後に部下たちにそんな想いをさせたくはないと、自分は確かにそう思うのだから。
 死を悼むことと、その死に対し後悔することは違う。
 部下の一人は、彼はフラッグに誇りを持って死んだ。その誇りは、なによりも代えがたく失いがたい。だから彼の誇りを継くのだ。自分の誇りと共に、彼のその生き様をも誇りとして、フラッグに乗るのだ。
 熱い水を、ただあるがままに受け入れて流していく。忘れるな。忘れるな。この痛みを、この熱を。
 忘れてはならない。いつかもし忘れたときには――そのときはきっと、グラハム自身がフラッグを降りる瞬間となるのだから。




「長かったね」
 シャワールームを出た瞬間、かけられた声にグラハムは素直に驚いた。
 まさかこんな時間に部屋に誰かがいるとは思ってもみなかったのだ。しかも、いくらシャワーを浴びていたとはいえ、その気配にさえ気づかなかったなんて。
「……カタギリ」
 グラハムの自室で、ひとりがけのソファに沈んでいたのはビリーだった。持て余したかのように長い足を組み、苦笑してグラハムを見上げていた。
「酷い顔だ。あまり熱すぎるお湯を浴びるのはいけないよ。身体にもよくない」
 云われるほど妙な顔をしている覚えはないが、ビリーが云うならばそうなのだろうか。頬に掌を当て、グラハムは小さく首を傾ける。
「飲むといいよ、君の分だ。大丈夫、砂糖は入れていないから」
 云われ示された先のローテーブルには、二つのマグカップ。グラハムがシャワーを浴びている間にビリーが入れたのだろう、片方は中身が半分減っており、もう片方はグラハムの取っ手がグラハムの左手に向かって置かれていた。
 カップの中身は白い液体だった。匂いからしてミルクだろう。どこか甘やかな香りのするそれを口に運び、グラハムはかすかに眉を寄せた。
「……ああ、やっぱりバレたかな」
 正直なグラハムの反応にビリーは笑う。恨みがましげな目を向けてやると、ビリーは困った風に首を傾げてみせた。
「砂糖は入れてないよ、嘘じゃない。ただ、メイプルシロップをちょっとね」
 だから香りが甘かったのかと、遅まきながらグラハムはその正体を知る。ホットミルクなど滅多に飲まないものだから、気づくことが後れてしまった。
 この自分が遅れをとるとは、全くらしくない。
「それで少しは肩の力を抜いて。それと、……あまり、無茶をしないで」
「お前に云われたくはない」
 包帯を巻きつけた左腕と頭とを交互に見てやると、ビリーは困ったようにただ笑う。彼がグラハムになにをいいたいのかはわかっている。わかっているが、あえて口にしてはほしくない。
 そのようなグラハムの考えを、ビリーもまたわかっているのだろう。どうしたものかとでも云うように首を傾けると、下ろされた髪が揺れる。
 自室や彼の部屋でそうなる姿はよく見るが、最初からこの姿であることを見ることは滅多にない。括り上げるのが面倒だからと低い位置で結ぶ姿を見たことはあるが、そうすることもできず結果的に毛先だけを括るという姿を見るのも、そう思えば初めてではないだろうか。
 それだけのことがあったのだ。
 それだけのことが、起こってしまったのだ。
「ねえ、グラハム」
「なんだ」
「ひとつ我侭を云ったら、君は赦してくれるかい?」
 無傷の右手を差し出され、右手でそれを取る。持ち上げた指先に唇を寄せて了承の意を示すと、ビリーはやわらかく微笑んだ。
「キスを、くれるかな」
 唐突な言葉が胸を突く。キスを、とビリーは云った。
 与えられた言葉のままにグラハムはビリーに顔を寄せ、唇を重ねる。かさついた唇を慣らすように時折舌を這わせ、けれど深く貪ることはない。ただ重ねるだけの口付けに、ビリーが小さく笑ったのがわかった。
 絡めていた指先が解かれ、グラハムの頬に触れる。
 ビリーのぬくもりが触れる。ビリーの匂いがする。誰にも替えがたい、ビリー・カタギリはここにいる。
「……っん」
 唐突に深くなった口付けに、ビリーが驚きながらも喉の奥で笑ったことには気づいたが大したことではなかった。
 深く深く。もっと近くへと抱き寄せるようにビリーの肩を引き寄せて。怪我さえなければ両腕できつく抱き締めただろうと思うと心寂しいものがあるが、それでもビリーがここにいることに変わりはない。
「は、……グラ、ハム」
 苦しげに息をつくビリーを、しかしグラハムは離そうとは思えなかった。まだだ、まだ足りない。
 離れがたく触れるだけのキスを繰り返す。頬に、目尻に、瞼に、包帯の巻かれた額に。
 まるで子猫のようなそれだとでも思われているのだろう、ビリーはくすくすと笑い、グラハムもまた唇の端を上げざるを得なかった。
 放し難い熱がここにはあった。心と、身体と、燃えるような熱さは確かにここにある。
 ――生きているからだ。生きているのだから。
 どんなに悲しもうと、どんなに苦しもうと、自分たちは生きてここにいて、そうして生き続けるのだ。そこに良し悪しはなく、ただあるべき明日のために今日を生きていかなければならない。
 それだけのものを託され、それだけのものを抱いている。
「グラハム、僕はここにいるよ」
 いつの間にかビリーの顔はグラハムの眼前にあった。グラハムならばともかく、彼がこうするのは珍しい。
 けれど気まぐれな猫のように身を寄せたビリーは、その漆黒の瞳にグラハムを映して柔らかに表情を崩す。愛おしげに、けれどどこか悲しげに。
「ここにいるから――だから、行っておいで」
 残される悲しさを、悔しさを知っている。それは、グラハムだけの想いではないのだ。
 空を飛び追い求めるグラハムもまた、いつ彼を置いていく側になるかわからない。それでも彼は行ってこいという。この地上で、グラハムを待つという。変わらない場所で、グラハムを待ち続けるという。
 それもまた、強さだ。グラハムには持つことのできない強さでもって、ビリーはグラハムの背中を押そうとしてくれる。
「カタギリ……」
 ならばグラハムにすべきことはひとつだ。ビリーを守り、この地を守り、この国を守るために。ユニオンの軍人、MSWADのフラッグファイターとしての、グラハムのあり方はいつだって変わらない。
「私は、勝つ。そして必ず君の元へ帰ろう」
 忘れてはならない想いがある。失ってはならない熱がある。
 だから、戦うのだ。今はまだ、全てを守る力はないけれど。――否、だからこそグラハムは、戦い続けるのだ。