白い天井




 白い天井はなにも語らない。
 ただ眩しいばかりの白が視界に広がっているだけの世界は、自分の居場所さえ曖昧なものとして忘れさせようとしているかのように思えた。
 現実の、居場所。
 ――そうだ、現実はこんなに白いものではなかった。白い綺麗なものが広がっているばかりではなかった。
 どす黒い現実。砂埃にまみれ、深紅に染まった現実。あんなもの、見たくなんてなかった。けれど呆気ないほどに現実は現実としてビリーの前に横たわり、無力な彼はなにもできず流されるままに現実を見上げることしかできなかった。
「カタギリ」
 ふいに滑り込んできたのは、耳慣れた声。いつも隣にあった、いつもその姿を見上げていた、小さくも大きな、大切なひと。
 まるで存在そのものが奇跡のようであったその人は、けれどビリーの傍らに立つとそれっきり口を閉ざしてしまう。
 それは少し不思議な感覚だった。
 いつもならば、例えビリーが仕事中でも食事中でも寝不足でも風邪で寝込んでいても、自分のペースで話し出してはビリーを巻き込んでくれる人だというのに、どうして彼はそんな真剣な顔でビリーを見下ろして堅く口を閉ざしてしまっているのだろう。
「……グラハム?」
 少しだけ首を傾けて、けれど走る痛みに動きは止められた。身体が動かない。ようやく気づいたその事実は、無慈悲なまでに平然とビリーを覆って逃がしてはくれなかった。
 身体中が痛い。腕の一本ですら満足に上げられそうにない、この現実は一体なんだというのだろう。
 しかし現状は、分析するまでもなく明白だった。
 ここは病院。見覚えがないように思うから、もしかしたら軍の医療施設ではなく外部の施設なのかもしれないが、つまりはこの身体のせいでビリーは病院に運び込まれたのだ。
「グラハム、一体どうして――」
 どうして。そう思い、考え、すぐに思い出す。
 緊急のアラーム。敵襲を告げる音。青い空。見上げた先の、見知らぬ機体。それは突然に現れ一瞬のうちにビリーたちの日常を奪っていった。
 爆風に巻き込まれ、意識を失い、ようやく目を開けられたときにはもう、そこにはなにもなかった。あるべき現実が奪われた。
「グラハム。……教授は」
 奪われて、しまったのだ。
「……エイフマン、教授は……?」
 グラハムはただ硬いままの表情でビリーを見下ろし、ゆっくりと首を横に振る。視界が歪んだ。きちんと見つめているはずなのに、グラハムの顔が見えない。
 まさか、まさか、そんな。
「本部施設は壊滅状態だ」
 機械的な声が耳に届く。グラハムの言葉とは思えなかった。けれどそれは確かにグラハムの声で、グラハムはビリーにそう告げ、ビリーはそれを聞いた。
 ――そうだ。聞くまでもなかったのだ。
 なぜなら教授のいたはず塔は破壊されたのだから。そしてそれをグラハムに伝えたのは、ビリー自身であるのだから。
 あの塔の上には教授の部屋があり、教授はあのときその部屋にいた。作業途中、随所で教授に報告を入れてときたま指示を仰いでいたビリーは知っている。あの部屋に、教授はいた。確かに、いた。
 けれどあの部屋はもうない。新型のガンダムに、圧倒的な火力でもって蹂躙され尽くしてしまった。真っ直ぐに天に伸びていたはずの塔は、その影すら残さずに全て崩れ去った。
 教授の他にどんな人間がそこにいたのかなど、ビリーは知らない。軍の上の人間がいたのかもしれないし、いなかったのかもしれない。だがビリーにはそんなことは関係がない。ただ、忘れてはいけない事実があるとすればそれはきっとひとつだ。教授は確かにあそこにいた。
 あの塔の上に、教授がいたのだ。
「あ、ああああああああ……っ!」
 喉から出た声は声にならなかった。自分がなんと叫んだのか、なにを叫ぼうとしたのか、そんなことはビリーにだってわからない。
 身体中が痛かった。心臓が痛かった。脳みそを素手でかき混ぜられるかのように、思考が迷走して定まらなくて、どうしたらいいのかわからなかった。
 ふいに両手首を押さえられ、ベッドにその手を押さえつけられて初めて、ビリーは自分が両手を浮かせていたことに気づいた。無闇に振り回していたのかもしれないし、なにかを掴んでいたのかもしれないが、ビリーに把握できたのは今自分の腕がグラハムの手によってベッドに縫い付けられているというその事実だけだった。
 病室にはビリーがいて、グラハムがいて、教授がいない。
 それだけが現実だった。
「……どうして」
 グラハムは真上からビリーを見ていた。まるで凍りついたかのように表情のない顔で、ただビリーを見ていた。
「どうして君がここにいるの」
 空にいるはずのグラハムが、どうしてここにいるのだろう。地上にいるべきエイフマン教授が、どうしてここにいないのだろう。
 ひとつの疑問は現実と重なり一瞬にして全てを繋げていく。
 戦争根絶を訴えるソレスタルビーイングが軍事演習に対し武力介入を行ったことはある。けれどかの組織がなんの行動もしていない軍施設に銃を向けることはなかった。最近でMSWAD内に特別な動きがあったとすれば、それは対ガンダム調査隊を第八独立戦術飛行隊として新たな位置づけを与えたことくらいしか考えられない。けれどあのとき、第八独立戦術飛行隊――通称オーバーフラッグスは海の上にいた。三国によるガンダム鹵獲作戦から帰投するところだった。グラハムたちはまだ、基地にはいなかった。
 戦争・紛争の根絶を謳うソレスタルビーイングが、その理念の前に立ちふさがるものと認識してオーバーグラッグスを狙ってきたというのなら、構図は単純だ。けれどあのとき、オーバーフラッグスはそこにはいなかった。
 あれだけ大規模な作戦があったのだ、MSWAD本部にモビルスーツが残されていようとも、その数など高が知れている。
 それでもガンダムはやってきた。
 発進されてもいないモビルスーツを戦闘機をハンガーごと根こそぎ潰し、非戦闘員も多くいる施設を壊滅させた。――そこに真実があるように、ビリーは思った。そう思わざるを得なかった。
「君がここにいるのに、どうして教授が、ここにいないんだ……っ!!」
 わからない。真実などビリーにはわからない。全ては推測だ。推測だけれど、これは限りなく真実に近いものではないだろうか。
 教授はもういない。けれど、グラハムがここにいる。いつだってどんなときだって作戦行動が終了すれば平然とした顔で帰ってくるグラハムは、今回もまた生きて帰ってきた。否、生かされて戻ってきた。
 見上げた先にはグラハムがいる。硬い表情のまま、ただビリーを見ている。ふいに身体が弛緩し、視界がゆるく歪んでも、グラハムはビリーの手を放そうとはしなかった。
 真っ直ぐな碧の瞳から、ビリーは顔を背けた。熱いものが目尻を伝いシーツに吸い込まれていく。
 これが現実だ。
 逃れようもなく無慈悲な、これがビリーの現実だった。