愛していると言ってくれ




 この世に生を受けて約30年。短くはないが決して長くもない人生の中で、まさかこんな日が来るなんて夢にも思っていなかった。



 好きだ愛している私のものになれ、と。
 そう云って迫ってきたのは、ビリーよりも一回りも小さい、小奇麗な顔をした、けれど確かに男である――グラハム・エーカーその人だった。
「僕は男だ」
「私も男だ」
 反射的に口をついた言葉に、間髪入れずに返されてビリーは思わず口篭る。
 グラハムの瞳は迷いなくビリーを射て、その碧に偽りの色が浮かぶことはない。どうしてこんなことになってしまったのだろう。彼の言葉が頭の中を巡ってはビリーの心を乱していく。
 ようやく言葉を搾り出したとき、声が震えなかったのは奇跡だと思った。
「そうじゃない、わかっているなら――」
「なんのことだ」
 グラハムはただ、ビリーを見つめていた。
「君はなにか勘違いをしているんだよ。僕たちは近くにいすぎた。だから、」
「お前は私の想いを一瞬の気の迷いや若気の至りとしてしまうのか」
 頭半分ほど。遠すぎることはないが近すぎることもない、そんな距離の、しかも下方から見据えてくる碧の瞳はそういえばいつだって真実だけを真っ直ぐに見据えてきたのだ。
 その瞳が、どれだけビリーを惹きつけてやまなかったか、彼は知ることがないのだろう。
 今だって真正面から向かうその光はビリーを捉えて放さない。
 思わず身体を固めてしまったビリーをどう見たのか、グラハムは小さく溜息をつきながら大仰に肩をすくめてみせた。
「カタギリ、パイロットや技術者たちの間で、暗にお前がなんと呼ばれているのか知っているか?」
「は?」
 予想もしなかった台詞にビリーは目を丸くする。今度はなにを云い出すのか、と。
 そんなビリーの考えは予測済みだったのか、グラハムは満足げに微笑んだ。唇の端を意地悪く上げて、
「エーカー中尉の世話女房、だそうだ」
「……ああ」
 そういえばそんなことを云われていたような気もする。暗に、どころではなく、からかい混じりに何度か、だ。みんなそう思っているようだという予備知識までつけて。
 グラハムの瞳の奥が、猫のようにきらりと光る。蠱惑的とでもいうのだろうか、いつだって思いもかけない言葉で発想で、彼はビリーを乱しては楽しげに微笑んでいた。
「そんなお前に、今さら肩書きがひとつ増えたとて誰も気にはしないだろう」
 肩書き。なんだそれは。ああそうか『恋人』というやつか――と、熱っぽいグラハムの目を見返してビリーはようやく気付く。
 結局、自分はその程度なのだ。彼の望むもの望むことを、考えた末にしかわかることがない。彼のようにただ感情で動くことなど、研究畑にいた自分にはできるわけがないのだ。
 例えどれほど、誰よりも、彼を愛していたとしても。
「カタギリ」
 グラハムはビリーを見つめていた。ビリーだけを、見つめていた。
 ただそれだけのことだった。
「私はイエスしかいらない」
「……わかったよ」
「そうではない」
 イエスでいいと云ったくせに、ビリーの肯定の言葉は否定する我侭な男。
 わかっている。彼もまた不安なのだ。長かった付き合いを、その関係を、ここでまた変化させてしまうという事実に。
 変えていくなら二人一緒がいい。そうして二人で歩いていくことを、彼は望んでいるのだから。
 好ましいと思う。好きだと思う。
 誰よりも強く潔いまでに真っ直ぐなその瞳を。彼の行く先を、その先にあるものを、見ていきたいと思った。叶うのならば、その隣にいたいと思った。
 そんな彼が自分を望んでいるというのなら、もうビリーには逆らう術などあるはずもなかった。
「わかっているよ」
「カタギリ、」
 わかっている。わかっているからどうか、そんな切なげな目で見ないでくれ。乞うように、見上げないでくれ。
 もう少しで彼の望む言葉を紡ぐことができそうで、ビリーは目を閉じるとゆっくりと息を吐いた。
 彼の瞳から逃れるためではなく、もう一度自身の想いを見つめ直すために。
 そうして。そうして――