キスの記憶 




 慣れた気配を近くに感じて、ビリーは顔を上げた。



 夜半過ぎ、自らに割り当てられた作業室でビリーはいつものようにコンピュータへの打ち込みをしていた。思っていたよりも複雑化していた仕事ではあったが、なんとか明日の朝日を拝むより先に片付けることができそうだ。
 長時間の作業ゆえにそろそろ目も疲れてきた頃、応答の通信を入れもせずに部屋に入ってくる人があった。
 なにかと付き合いの長い相手だ、互いのしていることもその状況も、大抵が手に取るようにわかってしまう。そんな彼のことだから、もしかしたらタイミングを計ってここにやってきたのかもしれない。
 ビリーが長丁場になる仕事を抱えているとき、彼は適度に時間を見て様子を見にくることがある。そうして我侭とも気遣いともとれる振る舞いでビリーの部屋に新たな風を送り込むと、自身は時間だからとすぐに去っていくのだ。
 さて、この時間となるとおそらくは夜食でも調達してきてくれたのだろうか。
 そんなことを考えながら振り返ると、想像したとおり一口大のサンドウィッチが乗ったトレイを持ったその人影は、しかし予想していた場所よりもさらにビリーに近い位置に立っていた。
「……やあ?」
「遅くまでご苦労だな、カタギリ」
 そう云って、ビリーの机の邪魔にならない場所にトレイを置く。
 なるほどそのためにここまで来たのかとビリーは納得するも、しかし不可解な位置関係に内心で首を傾げる。
 トレイを置くだけならば、もう一歩後ろにいても大して変わらないのではないだろうか。どうして彼は、身体ごとビリーに密着するようにして隣に立っているのだろう。
「どうか、したのかい?」
 見上げたそこにいるのは、確かにグラハム・エーカーその人だった。  表情にも、変わったところはない。いつもの彼だ。遅くまで仕事をしているビリーを気遣ってやってきてくれた、たまの彼と全く変わりはない。
「……別に」
 なにを考えているのか、読めるようでいて読めない瞳で、グラハムはビリーを見据えていた。
 もしや今ビリーが抱えている仕事が気になるのかとも思ったが、彼の視線はコンピュータの画面ではなくビリー自身に向けられているようだった。
「僕の顔になにか付いているかい」
 それならばこの距離で云うほどではないだろう。そうは思いながらもからかい混じりに云ってみせると、グラハムはわずかに眉を寄せて左手をビリーの首筋に滑らせてきた。
 グラハムに真横に立たれているせいで身体はコンピュータを向いたまま、首だけをめぐらせて斜め上を見上げていたビリーに、この体勢はつらい。
 しかし、なにを、と口にしようとしたときには、もうビリーには首を動かすだけの余裕もなかった。
「――ん、」
 首裏に手を添えられ、向いた方の正面から落とすように口付けが与えられる。
 それ以上のことはない。ただ唇をなぞるように交わされるだけの、可愛らしいキスだった。
 グラハムがどうしてそんなキスをするのか、なにを望んでいるのか、ビリーにはわかろうはずもない。けれど彼の手は確かに、きつすぎも優しすぎもしない力でビリーを掴んでいた。それだけで、充分だった。
 唇が離れるさなかにビリーが笑いかけると、グラハムもまた子どもが肩を竦めるかのように笑ってみせた。